カリスマ的な人気を誇りながらも
26歳という若さでなくなり、
伝説のシンガーソングライターとなった
尾崎豊(おざき ゆたか)の息子、
尾崎裕哉(おざき ひろや)さん
シャープな顔立ちと
パワフルでハイトーンなボイスに
父である尾崎豊の面影があるとして、
かつての尾崎豊ファンからの
注目が集まっています。
人気絶頂の中、突然の死を遂げた尾崎豊。
実は、息子である尾崎裕哉さんに向けて
ある曲を残していたのです。
今回は、
- 尾崎豊の息子、尾崎裕哉ってどんな人物?
- 尾崎豊が息子裕哉に贈った曲「誕生」
などをまとめてみました。
尾崎豊の息子:尾崎裕哉ってどんな人物?
生年月日:1989年7月24日(2016年7月で27歳)
出生地:東京都
職業:ミュージシャン
一番好きな尾崎豊の曲:僕が僕であるために
略歴
1992年4月25日
父:尾崎豊が死亡。この時、尾崎裕哉は2歳。
その後、幼少時代は母親とアメリカのニューヨークで生活。
2004年3月24日
リリースされた
父:尾崎豊のオムニバストリビュート・アルバム
『”BLUE” A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』
(ブルー ア・トリビュート・トゥ・ユタカ・オザキ)
このアルバムにHIROという芸名で、
Crouching Boys(クラウチングボーイズ)の
メンバーとして参加。
尾崎豊の名曲、
15の夜をカバーしている。
父の名曲をただなぞるだけじゃない、
変わった表現手法に賛否両論の声が集まった。
>>(15の夜)The Night・Crouching Boys >youtube
2008年6月
2008年
2010年10月2日
エフエムインターウェーブで自身初のラジオ番組
『CONCERNED GENERATION』でラジオDJとなる。
番組初回の冒頭では、
「おれの父は尾崎豊で、彼やさまざまな人々に
影響を受けながら育ちました」
と語り、
この番組での目標については、
「社会に溢れる人種問題、貧困問題、環境問題などの
様々な問題を“音楽”という手段で解決して行きたい」
と語っている。
2015年10月10日
大阪・ミナミのライブハウス「DROP」で、
尾崎裕哉としての初ライブを行う。
参考元:wikipedia
尾崎豊が亡くなったのが、26歳の時。
まだ幼かった尾崎裕哉さんは
父と過ごした日々を覚えていない。
それから24年が経ち、
父の年齢に追いついたことについて、
「父親は通過点。その先の景色も見たい」
と語っています。
尾崎豊が息子裕哉に贈った曲「誕生」
尾崎豊は若者達のカリスマ・10代の代弁者として
熱狂的な人気を得ていました。
ところが、20歳になる頃から
音楽の方向性を見失い、スランプに。
- 無期限の活動中止
- 単身渡米するも収穫なく帰国
- レコード会社の移籍
- 信頼のおけるスタッフとの別離
これらの出来事の間も、
曲が書けない苦悩が続いていました。
そんな日々や環境に悩んだ結果なのか、
覚せい剤に手を染め、逮捕。
最悪の形で活動を休止することに。
復帰後にリリースした
「太陽の破片」はなんとかヒット。
東京ドームにて復活ライブも行うも、
以前の勢いからはほど遠いもの。
そんな苦しい状況の中、
新たな価値観を見いだし、
完全復活のキッカケとなった出来事。
それが、
息子である尾崎裕哉さんの誕生です。
息子の誕生をキッカケに、
かつての「自由」「反支配」といったものとは異なり、
「真実の愛」「贖罪」「罪」をテーマに
楽曲を作り始めた尾崎豊。
それらの楽曲を詰め込んだ2枚組アルバム
『誕生』はオリコン1位を記録。
翌年には大規模なツアーを行うなど、
完全復活を遂げることができました。
2枚組アルバム『誕生』の最後に
収録されている曲名は同じく『誕生』
この曲は息子である尾崎裕哉さんに
贈られたものであると言われています。
歌詞は尾崎豊自身の苦悩から始まります。
どうしようもないところまで落ちぶれた自分。
そんな中で産まれた息子という存在。
最後にはやがて一人で立ち上がり
生きて行くことになる、
息子への力強いメッセージ。
そこに込められた本当の意味を理解できるのは、
息子の尾崎裕哉さんだけなのかもしれません。
偉大な父親の影にとらわれることなく、
尾崎裕哉そのものの個性を誇りに
これから活躍していってほしいです。
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